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光は東より来たらん

 

この後、わたしは四人の御使が

地の四すみに立っているのを見た。

彼らは地の四方の風をひき止めて、

地にも海にもすべての木にも、

吹きつけないようにしていた。

また、もうひとりの御使が、

生ける神の印を持って、

日の出る方から上って来るのを見た。

 

彼は

地と海とをそこなう権威を授かっている四人の御使にむかって、

大声で叫んで言った、

「わたしたちの神の僕らの額に、

わたしたちが印をおしてしまうまでは、

地と海と木とをそこなってはならない」。

わたしは印をおされた者の数を聞いたが、

イスラエルの子らのすべての部族のうち、

印をおされた者は十四万四千人であった。

ユダの部族のうち、一万二千人が印をおされた、

ルベンの部族のうち、一万二千人、

ガドの部族のうち、一万二千人、

アセルの部族のうち、一万二千人、

ナフタリの部族のうち、一万二千人、

マナセの部族のうち、一万二千人、

シメオンの部族のうち、一万二千人、

レビの部族のうち、一万二千人、

イサカルの部族のうち、一万二千人、

セブルンの部族のうち、一万二千人、

ヨセフの部族のうち、一万二千人、

ベニヤミンの部族のうち、一万二千人が印をおされた。

その後、わたしが見ていると、見よ。

あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、

数えきれないほどの大ぜいの群衆が、

白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、

御座と小羊との前に立ち、

大声で叫んで言った、

「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」。

御使たちはみな、

御座と長老たちと四つの生き物とのまわりに立っていたが、

御座の前にひれ伏し、神を拝して言った。

「アァメン、さんび、栄光、知恵、感謝、ほまれ、

力、勢いが、世々限りなく、われらの神にあるように、アァメン。

聖書 ヨハネの黙示録  7章

 

かつてアッシリアに捕囚されたイスラエルの10氏族はイスラエルの地には帰らず、シルクロードを東へ東へと進み中央、東アジアの文化に影響を与えたようであ る。そしてとうとうその一部は、極東の島国、地の果てに辿り着き、その国の文化的基礎に決定的な影響を与えたようである。

かつて地球を破壊した人々の子孫は、未来へ未来へ、東へ東へと進み究極の未来でタイムマシンを完成し、過去に福音をもたらしたのである。

 

この極東の国、日本とは、天使的未来人の象徴なのである。そして東の果て、日の出る方から世界に福音をもたらす使命があるようである。神の印を世界の人々の胸に刻みつける使命があるようである。

 

更にわたしの名声を聞いたことも、

わたしの栄光を見たこともない、

遠い島々に遣わす。

彼らはわたしの栄光を国々に伝える。

聖書  イザヤ書 66章

新改訳聖書

 

 

そして、イスラエルの民がこの国に来てこの国の文化の基礎を造った証拠も、この国の何処かに隠されているようである。

 

主はわたしたちに、

こう命じておられる、

『わたしは、

あなたを立てて異邦人の光とした。

あなたが地の果までも救をもたらすためである』」。

異邦人たちはこれを聞いて喜び、

主の御言をほめたたえてやまなかった。

そして、永遠の命にあずかるように定められていた者は、

みな信じた。

聖書  使徒行伝 13章

 

さらに、地の果てまでも、教えを広めよとのイエスの命を受けた原始キリスト教徒もこの日本に来ている痕跡すらあるのである。そして、彼らもまたこの国の文化的基礎に大きな影響を与えたようである。すべては、世の終末に、世界に福音をもたらすためであったようだ。

 

日の出る(東の)方から、未来の方から天使的未来人が、神の印を持って現れることが描かれているではないか。日の出る(東の)方から、日本人が、神の印を持って現れることが描かれているではないか。

かつて日本人は「八紘一宇」のスローガンの下、侵略と殺戮を繰り返し、近隣諸国に多大な迷惑をかけた。その後、金銭のためならば他国の迷惑を顧みないエコノミックアニマルとなりはててしまった。この意味では、日本人は悪魔的未来人の象徴であったとしか言いようがない。

今こそ、日本人本来の心を思い出し、世界に愛と思いやりをもたらす天使的未来人の象徴となろうではないか。それが、過去の歴史に対する我々日本人の唯一の贖いの道なのである。

さて、ここで問題なのは、十四万四千人の人々が救われると記されていることだ。

地球には、70億以上の人間がいるのだ。これでは、ほとんどの人間が救われないではないか。

安心して欲しい。この十四万四千人をそのままの数字で取ってはならない。これも象徴なのだ。

 

12000人×12支族である。

 

我々の文明で7と同じく12は、祝福される数字、完全数として使われているのにお気づきだろうか。12ヵ月、12時間、12支族、12使徒、12宮、オリンポスの12神、12因縁、12支、、、、、、、。

これは、天使的未来人の我々への干渉が、12回目だからだ。この12回で、完全に過去の人々を救いたいという願いが込められていたのだ。完全×完全。一人残 らず完全に地球人を救いたいという願いがこの十四万四千人という数字には、込められていたのである。十四万四千人とは、全人類という意味なのである。まち がえても、どこかの宗教、宗派、教団に属している一部の人間ではない。

 

 

 

 

 

二人の証人

 

 

 

それから、

わたしはつえのような測りざおを与えられて、

こう命じられた、

「さあ立って、神の聖所と祭壇と、

そこで礼拝している人々とを、測りなさい。

聖所の外の庭はそのままにしておきなさい。

それを測ってはならない。

そこは異邦人に与えられたところだから。

彼らは、四十二か月の間この聖なる都を踏みにじるであろう。

そしてわたしは、わたしのふたりの証人に、

荒布を着て、千二百六十日のあいだ預言をすることを許そう」。

彼らは、全地の主のみまえに立っている二本のオリブの木、

また、二つの燭台である。

もし彼らに害を加えようとする者があれば、

彼らの口から火が出て、その敵を滅ぼすであろう。

もし彼らに害を加えようとする者があれば、

その者はこのように殺されねばならない。

預言をしている期間、彼らは、

天を閉じて雨を降らせないようにする力を持っている。

さらにまた、水を血に変え、

何度でも思うままに、

あらゆる災害で地を打つ力を持っている。

そして、彼らがそのあかしを終えると、

底知れぬ所からのぼってくる獣が、

彼らと戦って打ち勝ち、彼らを殺す。

彼らの死体は

ソドムや、エジプトにたとえられている大いなる都の

大通りにさらされる。

彼らの主も、この都で十字架につけられたのである。

いろいろな民族、部族、国語、国民に属する人々が、

三日半の間、彼らの死体をながめるが、

その死体を墓に納めることは許されない。

地に住む人々は、彼らのことで喜び楽しみ、

互に贈り物をしあう。このふたりの預言者は、

地に住む者たちを悩ましたからである。

三日半の後、いのちの息が、

神から出て彼らの中にはいり、

そして、彼らが立ち上がったので、

それを見た人々は非常な恐怖に襲われた。

その時、天から大きな声がして、

「ここに上ってきなさい」と言うのを、

彼らは聞いた。

そして、彼らは雲に乗って天に上った。

彼らの敵はそれを見た。

この時、大地震が起こって、

都の十分の一は倒れ、

その地震で七千人が死に、

生き残った人々は驚き恐れて、

天の神に栄光を帰した。

聖書 ヨハネの黙示録  11章

 

 

神の印を持って日の出る方から上ってくる御使とは、天使的未来人のことであり、その象徴でもある日本人全体のことでもあった。しかし、私は、黙示録にも描かれたイエスの二人の証人の一人でもあるような気がするのだ。

 

今の時代において、第一の証人・浅利幸彦氏は、聖なる預言を踏みつけにされ、預言の価値を分らぬ人々に無視され、凶暴な人々には、嘲笑され、誹謗中傷を受け、罵倒された。

 

聖なるものを犬にやるな。

また真珠を豚に投げてやるな。

おそらく彼らはそれを足で踏みつけ、

向きなおって

あなたがたにかみついてくるであろう。

聖書  マタイによる福音書  7章

 

そして、一時は地球人を救う気すら失ってしまったのである。

 

今は、判決が下されてから、

刑が執行されるまでの執行猶予期間。

判決は既に下されたのだから、

一日も早く刑が執行されるのを望む。

インターネット上の浅利氏の書き込み

 

いくら、天からある程度の権威を与えられても、彼一人の証言で地球人に有罪判決を下すことはできないのである。それが最後の審判のおきてである。

旧約聖書の中心となるモーセ五書を律法(トーラー)と呼ぶのは、最後の審判と呼ばれる法廷で使われる法律だからである。

 

どんな不正であれ、どんなとがであれ、

すべて人の犯す罪は、

ただひとりの証人によって定めてはならない。

ふたりの証人の証言により、

または三人の証人の証言によって、

その事を定めなければならない。

聖書  申命記  19章

 

第一の証人、第二の証人、さらに真実に気づいた人々に第三の証人となってもらい証言をしてもらわなければならない。

 

わたしが父のみもとから

あなたがたにつかわそうとしている助け主、

すなわち父のみもとから来る真理の御霊が下る時、

それはわたしについてあかしをするであろう。

あなたも、初めからわたしと一緒にいたのであるから、

あかしをするのである。

聖書  ヨハネによる福音書  15章

 

そして、地球人がさらにその証言を踏みにじった時、地球人の有罪が決定し、疫病、飢饉が地を覆い、さらにロシアの南下から始まる戦火に巻き込まれる。火の池に投げ込まれるのだ。

 

そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、

すなわちゴク、マゴクを惑わし、

彼らを戦いのために召集する。

その数は、海の砂のように多い。

彼らは地上の広いところに上ってきて、

聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲した。

すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽くした。

そして、彼らを惑わした悪魔は、

火と硫黄との池に投げ込まれた。

そこには、獣もにせ預言者もいて、

彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。

また見ていると、大きな白い御座があり、

そこにいますかたがあった。

天も地も御顔の前から逃げ去って、

あとかたもなくなった。

また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、

御座の前に立っているのが見えた。

かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。

これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、

この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。

海はその中にいる死人を出し、

そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。

それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。

この火の池が第二の死である。

このいのちの書に名がしるされていない者はみな、

火の池に投げ込まれた。

聖書 ヨハネの黙示録  20章

 

 

 

 

地上天国の完成

 

この後、わたしは天の大群衆が

大声で唱えるような声を聞いた、

「ハレルヤ、救と栄光と力とは、

われわれの神のものであり、

そのさばきは、真実で正しい。

神は、姦淫で地を汚した大淫婦をさばき、

神の僕たちの血の報復を

彼女になさったのである」。

再び声があって、

「ハレルヤ、彼女が焼かれる火の煙は、

世々限りなく立ちのぼる」と言った。

すると、二十四人の長老と四つの生き物とがひれ伏し、

御座にいます神を拝して言った、

「アァメン、ハレルヤ」。

その時、御座から声が出て言った、

「すべての神の僕たちよ、

神をおそれる者たちよ。

小さき者も大いなる者も、

ともに、われらの神をさんびせよ」。

わたしはまた、大群衆の声、多くの水の音、

また激しい雷鳴のようなものを聞いた。

それはこう言った、

「ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、

王なる支配者であられる。

わたしたちは喜び楽しみ、

神をあがめまつろう。

小羊の婚姻の時がきて、

花嫁はその用意をしたからである。

彼女は、光り輝く、

汚れのない麻布の衣を着ることを許された。

この麻布の衣は、

聖徒たちの正しい行いである」。

それから、御使はわたしに言った、

「書きしるせ。

小羊の婚宴に招かれたものは、

さいわいである」。

またわたしに言った、

「これらは、神の真実の言葉である」。

そこで、わたしは彼の足元にひれ伏して、

彼を拝そうとした。

すると、彼は言った、

「そのようなことをしてはいけない。

わたしは、

あなたと同じ僕仲間であり、

またイエスのあかしびとであるあなたの兄弟たちと

同じ僕仲間である。

ただ神だけを拝しなさい。

イエスのあかしは、

すなわち預言の霊である」。

聖書 ヨハネの黙示録  19章

 

疫病、飢饉、戦火による悪魔的未来人の地球侵略が、迫っている。しかし、これを回避するために、天使的未来人は、我々に福音を与えたのである。我々には、悪魔による呪いの道と天使による祝福の道が用意されていたのだ。

もし、我々地球人が、悔い改め、唯一の神を認め、天使的未来人を仲間として受け入れるならば、不幸な未来は、消えてなくなるのである。

 

悪魔的未来人は、疫病、飢饉、戦争で、多くの地球人を殺戮し、地球人を適正な人数にした後、救世主、いや、神として降臨した。そして、地球人を奴隷化し、彼らを神として崇拝させさえした。

彼らの支配体制に逆らうものは、抹殺し、奴隷と化した地球人は、人間としての誇りも失ってしまったのである。

天使的未来人は言う、天使さえ崇拝してはならないと、神だけを崇拝せよと。

ここで、彼らのいう神とは、何かをもう一度はっきりさせなければならないであろう。

この宇宙が出きる前、この神の霊のみがあった。それは、一つの思念体であった。新約聖書では、その思念を言葉と表現していたのを思い出して欲しい。そして神は、自らの霊、気を刻んで、この宇宙の森羅万象を創造したのである。

 

主は一つ、信仰は一つ、

バプテスマは一つ。

すべてのものの上にあり、

すべてのものを貫き、

すべてのものの内にいます、

すべてのものの父なる神は一つである。

聖書 エペソ人への手紙 4章

 

神は、万物に内在するのである。

 

主なる神は土のちりで人を造り、

命の息をその鼻に吹きいれられた。

そこで人は生きた者となった。

聖書  創世記  2章

 

 

人間もその例外ではない。地のちり、地球の元素を使い生物も、人間も造ったのである。しかし、神は、我々人間に、最も濃い神の息を吹き込んだのである。最も濃い神の霊を吹き込んだのである。

 

あなたがたは神の宮であって、

神の御霊が自分のうちに

宿っていることを知らないのか。

聖書  コリント人への第一の手紙 3章

 

「神は、わたしたちの内に住まわせた霊を

ねたむほどに愛しておられる」

と聖書に書いてあるのは、

むなしい言葉だと思うのか。

聖書  ヤコブの手紙  4章

 

神は、どこか遠いところに居るのではない。神の霊は、万物に宿り、我々の生命に内在しているのである。

それだけではない。その神の性質、全知全能と呼ばれる力もまた我々の中で活きているのだ。

 

尊く、大いなる約束が、

わたしたちに与えられている。

それは、あなたがたが、

世にある欲のために滅びることを免れ、

神の性質にあずかる者となるためである。

聖書  ペテロの第二の手紙  1章

 

我々人間とは、神の子、宇宙の子なのである。

 

あなたがたはあなたがたの神、主の子供である。

聖書 申命記 14章

 

彼らは生きる神の子らであると、

呼ばれるであろう。

聖書  ローマ人への手紙 9章

 

我々人間の霊、生命は、この万物に宿る神の霊なのである。ゆえに、我々が強く思い続けることは、万物に伝わり、その思いは現実となるのである。父なる神が、子なる我々の思いにこたえられるのである。

しかし、人間は、自分が神の子だという事実も忘れ、物質文明に溺れ、お互いに虐め合い殺し合い、利己主義、憎悪、嫉妬、怒り、恐怖、慢心、貪欲、絶望、、、などのマイナス意識で、心を満たしてしまっているのだ。

我々の霊は、神の霊である。神が、その思念でこの宇宙を創造したように、我々の思いが我々の未来を創造するのである。実は、あのコロニー人口削減計画による破局も、悪魔的未来人の侵略による破局も、その根本原因は、我々人類の発したマイナス意識なのである。

この破局を回避するには、地球人が、自分自身の中に住む唯一の神を認め、その同じ神を共有する他者を愛し、感謝、愛、希望、思いやり、、、などのプラス意識、無条件の愛の思念に心を改める以外にないのである。

実は、様々な宗教は地球人が、これを学ぶための型として、未来人から我々に手渡されたのである。

 

わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。

先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。

また、聖なる都、新しいエルサレムが、

夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、

神のもとを出て、天から下ってくるのを見た。

また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、

「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、

人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、

人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。

もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。

先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。

すると、御座にいますかたが言われた、

「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。

また言われた、

「書きしるせ。

これらの言葉は、

信ずべきであり、まことである」。

そして、わたしに仰せられた、

「事はすでになった。わたしは、

アルパでありオメガである。初めであり、

終わりである。かわいている者には、

いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。

勝利を得る者は、

これらのものを受け継ぐであろう。

わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。

しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、

人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、

すべて偽りを言う者には、

火と硫黄の燃えている池が、

彼らの受くべき報いである。

これが第二の死である」。

最後の七つの災害が満ちている七つの鉢を

もった七人の御使のひとりがきて、

わたしに語って言った、

「さあ、きなさい。

小羊の妻なる花嫁を見せよう」。

この御使は、わたしを御霊に感じたまま、

大きな高い山に連れて行き、

聖都エルサレムが、神の栄光のうちに、

神のみもとを出て天から下ってくるのを見せてくれた。

その都の輝きは、高価な宝石のようであり、

透明な壁玉のようであった。

それには大きな、高い城壁があって、

十二の門があり、それらの門には、

十二の御使がおり、イスラエルの子らの十二の部族の名が、

それに書いてあった。

東に三つの門、北に三つの門、

南に三つの門、西に三つの門があった。

また都の城壁には十二の土台があり、

それには小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。

わたしに語っていた者は、

都とその門と城壁とを測るために、

金の測りざおを持っていた。

都は方形であって、

その長さと幅は同じである。

彼がその測りざおで都を測ると、

一万二千丁であった。長さと幅と高さとは、

いずれも同じである。

また城壁を測ると、百四十四キュピトであった。

これは人間の、すなわち、御使の尺度によるのである。

城壁は壁玉で築かれ、

都はすきとおったガラスのような純金で造られていた。

都の城壁の土台は、さまざまな宝石で飾られていた。

第一の土台は壁玉、第二はサファイヤ、

第三はめのう、第四は緑玉、

第五は縞めのう、第六は赤めのう、

第七はかんらん石、第八は緑柱石、

第九は黄玉石、第十はひすい、

第十一は青玉、第十には紫水晶であった。

十二の門は十二の真珠であり、門はそれぞれ真珠で造られ、

都の大通りには、透き通ったガラスのような純金であった。

わたしは、この都の中には聖所を見なかった。

全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。

都は、日や月がそれを照す必要がない。

神の栄光が都を明るくし、小羊が都の明かりだからである。

諸国民は都の光の中を歩き、

地の王たちは、自分たちの栄光をそこに携えて来る。

都の門は、終日、閉ざされることはない。

そこには夜がないからである。

人々は、諸国民の栄光とほまれとをそこに携えて来る。

しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、

その中に決してはいれない。

はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。

 

御使はまた、

水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。

この川は、神と小羊の御座から出て、

都の大通りの中央を流れている。

川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、

その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。

のろわれるべきものは、もはや何ひとつない。

神と小羊との御座は都の中にあり、

その僕たちは彼を礼拝し、

御顔を仰ぎ見るのである。

彼らの額には、御名がしるされている。

夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。

主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。

彼はまた、わたしに言った、

「これらの言葉は信ずべきであり、まことである。

預言者たちのたましいの神なる主は、

すぐにも起こるべきことをその僕たちに示そうとして、

御使をつかわされたのである。

見よ、わたしは、すぐに来る。

この書の預言の言葉を守るものは、さいわいである」。

これらのことを見聞きした者は、

このヨハネである。わたしが見聞きした時、

それらのことを示してくれた御使の足もとにひれ伏して拝そうとすると、

彼は言った、「そのようなことをしてはいけない。

わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、

この書の言葉を守る者たちと、

同じ仲間である。ただ神だけを拝しなさい」。

またわたしに言った、

「この書の預言の言葉を封じてはならない。

時が近づいているからである。

不義な者はさらに不義を行い、

汚れた者はさらに汚れたことを行い、

義なる者はさらに義を行い、

聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」。

「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、

それぞれのしわざに応じて報いよう。

わたしはアルパであり、オメガである。

最初の者であり、最後の者である。

初めであり、終わりである。

いのちの木にあずかる特権を与えられ、

また門をとおって都にはいるために、

自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。

犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、

偶像を拝む者、また、

偽りを好みかつこれを行う者はみな、

外に出されている。

聖書 ヨハネの黙示録  21〜22章

 

地球人が、我々に内在するこの唯一の神を認め、神の愛を学び、天使を仲間として受け入れた時、天から天使的未来人は、降りてくる。犬とは、聖なる預言に、噛 み付き、天使の福音を無にする者どものことであろう。まじないとは、宗教の本質に気づけず、自分の宗教の型、祭式、枠組み、組織にこだわる者のことである。

 

すべての宗教宗派は天使の与えた尊い信仰である。この世界は唯一神の神の思念の中にあるのだから、人間は何を崇拝しても、

唯一の神しか崇拝できないのである。だから何を崇拝しても、それは唯一の神なのである。

偶像を拝む者とは、逆に自分たちだけの神を、自分たちだけの特別な神と見て、他者の神を同一の神と見ない者を指すのである。

 

まさにこの意味では、一神教徒が多神教に陥っていると言えるのかもしれない。

 

 

いけないのは、自分達 の宗教の型や祭式(まじない)、枠組み、組織を特別なものと見なす選民思想にあるのです。その上、自分達の宗教以外に救われる方法はないと信じ、あたかも 生贄を捧げるがことく、布教活動に熱中する、自分達の神に自分が祝福され、ご利益を得るために。

 

実は、ユダヤ教もキリスト教も、譬えにすぎないのです。ユダヤ教とは、宇宙の創造主を語りながらも、自分達しか愛さない心の狭い神を信じ、自分達が神に選ばれたのだとする選民思想をもち、生贄を捧げ、さらにイエ スを受け入れない。これは、現代の多くの宗教、宗派の譬えなのです。さらに、キリスト教とは、普遍的な神を認め、生贄を廃し、イエスを代表とする天使的未 来人を受け入れるイエス再臨の後にこの地上に出現する新しい心のあり方の譬えなのです。

 

 

 

ハルマゲドン

 

第六の者が、

その鉢を大ユウフラテ川に傾けた。

すると、その水は、

日の出る方から来る王たちに対し道を備えるために、

かれてしまった。

また見ると、龍の口から、獣の口から、

にせ預言者の口から、

かえるのような三つの汚れた霊が出てきた。

これらは、しるしを行う悪霊の霊であって、

全世界の王たちのところに行き、彼らを召集したが、

それは、全能なる神の大いなる日に、

戦いをするためであった。

(見よ、わたしは盗人のように来る。裸のままで歩かないように、

また、裸の恥を見られないように、

目をさまし着物を身につけている者は、さいわいである。)

三つの霊は、

ヘブル語でハルマゲドンという所に、王たちを召集した。

第七の者が、その鉢を空中に傾けた。

すると、大きな声が聖所の中から、

御座から出て、「事はすでに成った」と言った。

すると、いなずまと、もろもろの声と、

雷鳴とが起こり、また激しい地震があった。

それは人間が地上にあらわれて以来、

かつてなかったようなもので、

それほどに激しい地震であった。

大いなる都は三つに裂かれ、諸国民の町々は倒れた。

神は大いなるバビロンを思い起こし、

これに神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられた。

島々はみな逃げ去り、山々は見えなくなった。

また一タラントの重さほどの雹が、

天から人々の上に降ってきた。

人々は、この雹の災害のゆえに神をのろった。

その災害が、非常に大きかったからである。

聖書 ヨハネの黙示録  16章

 

悪魔的未来人の侵略と天使的未来人の救済計画が、明らかになった今、どちらの道を進むかを決定するのは、我々地球人ひとりひとりである。コロニー人口削減計画に 驚いたロシア軍が、かつてハルマゲドンと呼ばれたメギドからイスラエルに侵攻し、地球内全面戦争がはじまった。だから、地球内全面戦争を、ハルマゲドンと 呼ぶのだが、実は真のハルマゲドンとは、こんなちっぽけなものではない。

真のハルマゲドンとは、時空を超越した善と悪との戦いを言うのだ。

 

UFO が公然とその姿を現わし、こんな事実が公表されたとしても、一般の人々にとってはあまりに超現実的であり、そう簡単に理解できることではないであろう。ま た、宗教者、宗教組織にとっては、彼らの神を冒涜するものとしか映らないであろう。そして、権力者、特に陰謀者であるフリーメーソン・イルミナティは、必 死になって、弾圧、迫害を加えてくる可能性も高い、、、、イエス・キリストが、その祖先である彼らの代わりに十字架にかかり、その罪がすでに許されている にもかかわらず。

 

また、忠実な証人、

死人の中から最初に生まれた者、

地上の支配者であるイエス・キリストから、

恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちを愛し、

その血によってわたしたちを罪から解放し、

わたしたちを、その父なる神のために、

御国の民として、祭司として下さったかたに、

世々限りなく栄光と権力とがあるように、

アァメン。

聖書 ヨハネの黙示録  1章

 

 

あのイエス処刑のとき、ピラトは、ユダヤの民に選ばせたのである、処刑すべきなのは、ナザレのイエスか、暴動を起こして人々を殺した殺人鬼・バラバかを。そしてイエスが処刑され、バラバが許されたのである。イエスは、バラバの代わりに十字架にかかったのだ。

 

そこで、

ピラトはバラバをゆるしてやり、

イエスをむち打ったのち、

十字架につけるため引きわたした。

聖書  マタイによる福音書 27章

 

いや、暴動を起こして地球の人々を殺した殺人鬼である彼らの祖先の代わりに、十字架にかかったのだ。その証拠に、バラバの名前は、バラバ・イエス。バラバとは、イエス自身である。イエスの分身でもあるその祖先のために十字架にかかり、その罪を贖ったのである。

それにコロニー人口削減計画も、実は前の時間の世界では、必要なものだったのである。それは、地球人の教育役、天使と悪魔を生み出すためであった。確かに彼らは、神に命じられて、地球に残された人々を生贄にしたのである。

しかし、我々の時間の世界では、それは神によって止められたのである、神の命を受けてその息子、イサクを生贄に捧げようとしたアブラハムが、神によって止められたように。

 

 

信仰によって、アブラハムは、

試練を受けたとき、イサクを捧げた。

すなわち、約束を受けていた彼が、

そのひとり子をささげたのである。

この子については、

「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」

と言われていたのであった。

彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、

と信じていたのである。

だから彼は、

いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。

聖書   ヘブル人への手紙 11章

 

我々の時間の世界でありもしないコロニー人口削減計画で、彼らを非難してはならないのである。

むしろイエスは、彼らの協力を必要としているのである。

 

 

一般民衆、宗教者、宗教指導者、権力者、イルミナティ、、、、人々の利害関係が絡み世界は、混乱するであろう。地球人全体が救われるためには、イエス再臨、空中携挙を見て、数ヵ月の内に天使を人類全体として受け入れなければならない。

 

しかし、この天使か悪魔かの選択は、地球人全体だけではなく、個人的にも行われるのだ。そのイエス再臨、空中携挙を見て、個人的に悔い改め、天使を受け入れる者は、悔い改める者はさらに空中携挙されるのである。その悔い改める人々の数が少ないようなら、天使は彼らを仲間と受け入れて、彼らの本拠の惑星に帰っていく。もちろん、天使の地上復帰に協力しそのために殺された人々も、彼らの科学技術で復活させられるのであろう。

 

 

 

小羊が第五の封印を解いた時、

神の言ゆえに、

また、そのあかしを立てたために、

殺された人々の霊魂が、

祭壇の下にいるのを、わたしは見た。

彼らは大声で叫んで言った、

「聖なる、まことなる主よ。

いつまでもあなたは、

さばくことをなさらず、

また地に住む者に対して、

わたしたちの血の報復をなさらないのですか」。

すると、彼らのひとりびとりに白い衣が与えられ、

それから、

「彼らと同じく殺されようとする僕仲間や兄弟たちの数が

満ちるまで、もうしばらくの間、

休んでいるように」と言い渡された。

聖書 ヨハネの黙示録  6章

 

しかし多くの人間が悔い改めるようなら、携挙された人々と伴に地上に降臨し、この地球に地上天国を設立するのである。

 

 

 

 

 

イエスの告白

 

わたしイエスは、

使いをつかわして諸教会のために、

これらのことをあなたがたにあかしした。

わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、

輝く明けの明星である」。

御霊も花嫁も共に言った、

「きたりませ」。

また聞く者も

「きたりませ」と言いなさい。

かわいている者は、ここに来るがよい。

いのちの水がほしい者は、

価なしにそれを受けるがよい。

この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、

わたしは警告する。

もしこれに書き加える者があれば、

神はその人に、

この書に書かれている災害を加えられる。

また、もし、この書の言葉をとり除く者があれば、

神はその人の受くべきぶんを、

この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、

とり除かれる。

これらのことをあかしするかたが仰せになる、

「しかり、わたしはすぐに来る」。

アァメン、主イエスよ、

きたりませ。

主イエスの恵みが、

一同の者と共にあるように。

聖書 ヨハネの黙示録  21章

 

ここで、明けの明星という言葉が使われている。明けの明星とは、人類の夜明けの到来を告げる星、希望の星、救世主という意味なのである。元の時間の世界で も、世を救うため天に上り、不要人類を抹殺し、失敗して地獄に落された陰謀者たちも、人類の希望の星、明けの明星、救世主であったのだ。

 

 

 

黎明の子、明けの明星よ、

あなたは天から落ちてしまった。

もろもろの国を倒した者よ。

あなたは切られて地に倒れてしまった。

あなたはさきに心のうちに言った。

「わたしは天にのぼり、

わたしの王座を高く神の星の上におき、

北の果てなる集会の山に座し、

雲のいただきにのぼり、

いと高き者のようになろう」。

しかしあなたは陰府に落とされ、

穴の奥底に入れられる。

あなたを見る者はつくづくあなたを見、

あなたに目をとめていう、

「この人は地を震わせ、

国々を動かし、

世界を荒野のようにし、

その都市をこわし、

捕らえた者をその家に

解き帰さなかった者であるのか」。

聖書  イザヤ書 14章

 

これは、神を越えようと天に上り、その放漫さの故に地獄に落された堕天使ルシファーの記述であるが、堕天使ルシファーとは、まさにあのコロニー人口削減計画を行った陰謀者たちのことではないか。

 

確かに、明けの明星、堕天使ルシファーとは、あのコロニー人口削減計画を実行した陰謀者のことであった。これを考慮に入れると、黙示録のイエスの最後の言葉の真の意味も判ってくる。

 

ダビデ王は、ユダヤの王、旧約の救世主である。そして、明けの明星、堕天使ルシファーも古い歴史の救世主であった。そして、面白いことにあのコロニー人口削減計画を実行した陰謀者の中心となった一族の祖は、それを合体させたダビデ・ルシファーと音声的に非常に近いのである。

イエスを代表とする天使的未来人は、明けの明星である陰謀者の子孫であり、真の救世主であると告白しているのだ。彼ら天使は、地球人類という切り倒された木の切り株から生えた若枝(ひこばえ)だったのである。

 

イエス・キリストの本体は、未来から来た人間であった。しかし、我々が神の子であると同じくらい神の子であった。

 

 

なお、わたしが見ていると、見よ、

小羊がシオンの山に立っていた。

また、十四万四千人の人人が小羊と共におり

その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた。

またわたしは、大水のとどろきのような、

激しい雷鳴のような声が、天から出るのを聞いた。

わたしの聞いたその声は、

琴をひく人が立琴をひく音のようでもあった。

彼らは、御座の前、四つの生き物と長老たちの前で、

新しい歌を歌った。

この歌は、地からあがなわれた十四万四千人のほかは、

だれも学ぶことができなかった。

彼らは、女にふれたことのない者である。

彼らは、純潔な者である。

そして、小羊の行く所へは、どこえでもついて行く。

彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、

人間の中からあがなわれた者である。

彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった。

わたしは、もう一人の御使が中空を飛ぶのを見た。

彼は地に住む者、すなわち、

あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、

永遠の福音をたずさえてきて、

大声で言った、

「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。

神のさばきの時がきたからである。

天と地と海と水の源を造られたかたを、伏し拝め」。

また、ほかの第二の御使が、続いてきて言った、

「倒れた、大いなるバビロンは倒れた。

その不品行に対する激しい怒りのぶどう酒を、

あらゆる国民に飲ませた者」。

ほかの第三の御使が彼らに続いてきて、大声で言った、

「おおよそ、獣とその像とを拝み、

額や手に刻印を受ける者は、

神の怒りの杯に混ぜものなしに盛られた、

神の激しい怒りのぶどう酒を飲み、

聖なる御使たちと小羊との前で、

火と硫黄とで苦しめられる。

その苦しみの煙は世々限りなく立ちのぼり、

そして、獣とその像とを拝む者、

また、だれでもその名の刻印を受けている者は、

昼も夜も休みが得られない。

ここに、神の戒めを守り、

イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」。

またわたしは、天からの声がこう言うのを聞いた、

「書きしるせ、

『今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである』」。

御霊も言う、

「しかり、彼らはその労苦を解かれて休み、

そのわざは彼らについていく」。

 

またわたしは、

天に大いなる驚くべきほかのしるしを見た。

七人の御使が、最後の七つの災害を携えていた。

これらの災害で神の激しい怒りがその頂点に達するのである。

またわたしは、

火のまじったガラスの海のようなものを見た。

そして、このガラスの海のそばに、

獣とその像とその名の数字とにうち勝った人々が、

神の立琴を手にして立っているのを見た。

彼らは、神の僕モーセの歌と小羊の歌とを歌って言った、

「全能者にして主なる神よ。

大いなる、また驚くべきものであります。

万民の王よ、あなたの道は正しく、

かつ真実であります。

主よ、あなたをおそれず、

御名をほめたたえない者が、ありましょうか。

あなただけが聖なるかたであり、あらゆる国民はきて、

あなたを伏し拝むでしょう。あなたの正しいさばきが、

あらわれるに至ったからであります」。

その後、わたしが見ていると、天にある、

あかしの幕屋の聖所が開かれ、

その聖所から、七つの災害を携えている七人の御使が、

汚れのない、光り輝く亜麻布を身にまとい、

金の帯を胸にしめて、出てきた。

そして、四つの生き物の一つが、

世々限りなく生きておられる神の激しい怒りの満ちた七つの金の鉢を、

七人の御使に渡した。

すると、聖所は神の栄光とその力から立ちのぼる煙で満たされ、

七人の御使の七つの災害が終ってしまうまでは、

だれも聖所にはいることができなかった。

聖書 ヨハネの黙示録  14〜15章

 

 

 

                  

                          

I

 

   

新しい契約

 

神 の刻印については、何度かお話ししたが、やはりもっと詳しくお話ししなければならないようである。別の言い方をすれば、新しい契約である。ユダヤ教の旧約 に対するキリスト教の新約である。ユダヤ教の契約が、イエス・キリストの出現で無効になったように、様々な宗教・宗派の神仏が、その信者と結んできた契約 も、再臨のイエスの出現で無効になるのである。

 

ところが、神は彼らを責めて言われた、

「主は言われる、見よ、

わたしがイスラエルの家およびユダの家と、

新しい契約を結ぶ日が来る。

それは、わたしが彼らの先祖たちの手をとって、

エジプトの地から導き出した日に、

彼らと結んだ契約のようなものではない。

彼らがわたしの契約にとどまることをしないので、

わたしも彼らをかえりみなかったからであると、

主が言われる。

わたしが、それらの日の後、

イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、

と主が言われる。

すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、

彼らの心に書きつけよう。

こうして、わたしは彼らの神となり、

彼らはわたしの民となるであろう。

彼らは、それぞれ、その同胞に、また、それぞれ、

その兄弟に、主を知れ、と言って教えることはなくなる。

なぜなら、大なる者から小なる者に至るまで、

彼らはことごとく、わたしを知るようになるからである。

わたしは、彼らの不義をあわれみ、

もはや、彼らの罪を思い出すことはしない」。

神は、「新しい」と言われたことによって、

初めの契約を古いとされたのである。

年を経て古びたものは、やがて消えていく。

聖書  ヘブル人への手紙  8章

 

ヘブル人への手紙からの抜粋であるが、これは、ヘブル人すなわちユダヤ人に宛てた手紙ではない。思い出して欲しい。キリスト教もユダヤ教も、それ自体が譬えにすぎなかった。

 

イエスはこれらのことをすべて、譬で群衆に語られた。

譬によらないでは何事も彼らに語られなかった。

聖書  マタイによる福音書  13章

 

ユ ダヤ教とは、現在までの宗教の譬え、キリスト教とは、イエス再臨後の、地球人の心のあり方の譬えであった。イエス再臨で、これまでの宗教、宗派の神仏がそ の信者と結んできた契約は無効になるのである。だから、地球人は、新しい契約を、再臨のイエスを通して、父なる神と結ばなければならないのである。

古い割礼という神の刻印ではなく、心に刻む神の刻印こそが、神との契約である。

 

また、

文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、

そのほまれは人からではなく、

神からくるのである。

聖書  ローマ人への手紙  2章

 

だから、神の戒めを心に刻みさえすれば、神と契約したことになるのである。獣の刻印を拒否したことになるのである。そこで、再臨のイエスを通して、神と結ぶ新しい契約の内容を、あきらかにする必要がある。

 

契約第一条項 父なる神を認めること

 

 

父 なる神は、思念、霊、気で万物を創造した。そしてその万物の中に、神の力が活きているのだ。たとえ虫けらや草木でさえ、生き残るために、こうなりたいと願 えば、その何世代もの思念の集積が、その生物を進化させるのである。葉っぱとみまごう擬態も、決して偶然の産物、単なる適者生存の結果ではない。

 

神はまた言われた、

「われわれのかたちに、

われわれにかたどって人を造り、

これに海の魚と、空の鳥と、

家畜と、地のすべての獣と、

地のすべての這うものとを治めさせよう」。

聖書  創世記 1章

 

 

そして、神は、我々人間にその最も高い神性を与え、万物の霊長とされたのだ。神性とは思考により、万物を創造する力である。我々には、他のなにものにも優る 想像力、思考を具体化する言語が与えられた。すなわち、最も強い創造力があたえられたのだ。その能力があるからこそ、我々は文明を発展させることができた のである。

しかし、我々は、自分達が神の子、神自身であることも忘れ、利己主義、憎悪、嫉妬、怒り、恐怖、慢心、貪欲、絶望、、、などのマイナス 意識で心を満たし、憎み合い、いじめ合い、殺し合う。その行為と思念が、破局を招くのである。今、そのマイナス思念が、世界を覆いまた破滅を招こうとして いる。神が思念でこの宇宙を創造したように、我々の思念もすべてを創造するのである。

天使的未来人は、「我々の生命には、神が宿っている。ゆえにいかなる苦しみにも負けず活き抜き、同じ神を宿す他者に愛を持ち、みんなが幸せになれる世界を築きなさい」と言うメッセージを宗教に託した。

しかし、地球人は、その宗教を口実に、憎み合い、殺しあう。

今 こそ、この神が我々に宿ると言う現実にみなが気づき、マイナス意識を、感謝、愛、希望、思いやり、、、などのプラス意識に切り替え、個人の心そして世界を 浄化しなければならない。その形式(祭式)や言葉にかかわらず、『霊的世界をも含めた全世界(三千世界)の万民万物の幸福と大調和を願う思念』を発さなけ ればならない。

 

 

しかし、このたぐいは、

祈りと断食とによらなければ、

追い出すことはできない。

聖書 マタイによる福音書 17章

 

 

イエスが悪魔払いに必要であると言った祈りは、善悪、好き嫌い、敵味方に関わらず、在りとし在るもの向けられる無条件の愛だったのである。

 

隣人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、

 

あなたがたの聞いているところである。

しかし、わたしはあなたがたに言う。

敵を愛し、迫害する者のために祈れ。

こうして、

天にいますあなたがたの父と子となるためである。

天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、

太陽をのぼらせ、

正しい者にも正しくない者にも、

雨を降らして下さるからである。

「聖書」 マタイによる福音書 5章

 

  

とは言っても、別に特別のことをするわけではない。すべてを許し、批判非難するのを止め、皆の幸福を願えばいいだけのことである。いや、皆の幸福な未来を語るだけでも、その言霊は霊的世界に響き渡るのである。

 

 

 

そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、

 

すでにかなえられたと信じなさい。

そうすれば、

そのとおりになるであろう。

聖書 マルコによる福音書 11章

 

もちろん、イエスが言うように、この無条件の愛を完了形で祈るのも、ひとつの方法である。いや、方法などにこだわってはならない。どの宗教、宗派もその根本にあるのは「愛」なのだ。しかし我々は、その方法の違い、型の違いのために、宗教的争いをしてきたのだから。

 

神を認めることとは、自分自身の神性を認め、その愛の光で、神性を輝かせることである。なぜならば、神は、愛そのものなのだから。

 

 愛する者たちよ。

わたしたちは

互に愛し合おうではないか。

愛は、神から出たものなのである。

すべて愛する者は、

神から生まれた者であって、

神を知っている。

愛さない者は、

神を知らない。

神は愛である。

「聖書」 ヨハネ第一の手紙 4章

 

 

 

契約第二条項 イエスを代表とする天使的未来人を受け入れること

 

イエスを代表とする未来人は、物言わぬ神の意志を悟り、過去の我々を哀れんで、6千年間も天使として働いてきたのである。彼らは、彼らを仲間として受け入れ る者は、彼らも彼らの社会に仲間として受け入れると約束しているのだ。彼らを受け入れる者は、大艱難が起っても、防ぎ守ることは約束している。いや、彼ら を受け入れた者は、たとえその命を失ったとしても、復活させ永遠の生命を与えるとまで約束しているのである。

 

わたしは道であり、

真理であり、命である。

だれでもわたしによらないでは、

父のみもとに行くことはできない

聖書  ヨハネによる福音書 14章

 

やはりキリスト教徒が言うように、「イエスを受け入れない者は救われない」と言うのは本当だったようだ。

 

そして彼の上に、

わたしの神の御名と、

わたしの神の都、

すなわち、

天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、

わたしの新しい名とを、書きつけよう。

耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』。

聖書 ヨハネの黙示録  3章

 

この終末、我々地球人は、イエス・キリストを、新しい名で受け入れなければならないのである。彼ら天使も、天使を受け入れられない人間を受け入れられないのである。あなたは、あなたを受け入れない人間を受け入れられますか。

 

この再臨のイエスと新しい契約を結ばないということは、自動的に悪魔と盟約を結ぶということである。獣の刻印を受けるということなのである。

この終末に人類は、個人的にも、全体としても、天使か悪魔かどちらかを選ばなければならないのだ。私は、全人類が「再臨のイエスとの新しい契約」を選んでくれるものと信じている。

 

 

 

契約第三条項  地上に未練を残すな

 

 

 

地 球人全体として天使を受け入れた場合は、全ての人々が救われる。しかし地球人の大多数が受け入れなかった場合は、携挙という手段で、彼らを受け入れた人々 をUFOで救済する以外ないのである。この場合、その後疫病と飢饉で多くの人々は殺され、生き残った人々も悪魔の奴隷となるのである。もう二度と地球に戻 ることはできないのだ。

 

荒らす憎むべきものが、

立ってはならぬ所に立つのを見たならば

(読者よ、悟れ)、

そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。

屋上にいる者は、下におりるな。

また家から物を取り出そうとして内にはいるな。

畑にいる者は、上着を取りにあとへもどるな。              

  聖書 マルコによる福音書 13章

 

ここで、イエスは、上着を取りにあとへもどるな!と言っいてる。これは、地上の物に未練は残さず、何も持たずに来い!という意味である。何も持たずに来いと は、物だけでなく、我々がこの地上で持っていた出身の家柄や学歴、職歴、地位、外見なども含まれるのである。当然、ペットなど連れて行こうなど論外であ る。              

 

しかしあなたの愛する配偶者、親族、恋人を見捨てて、地上を去っていくのは耐えがたい苦しみであろう。この携挙のモデルケースとして描かれた「ソドム脱出」 「ラハブ救出」の話では、御使いは、親族を連れて来いと言っているのだ。これは、あなたの愛する者を説得して連れて来いという意味であろう。しかし彼ら天使も無条件に、彼らを受け入れる訳ではない。

 

ソドム脱出の話では、二人の娘のいいなずけは、話を信じずソドムで火に焼かれてしまう。また、ロトの妻は、ソドムに未練があったために、振り向いて塩の柱になってしまったのだ。

やはり無条件で救出はできないのである。しかし物事がわからない幼い子供は、どちらかの親でも、条件を満たしていれば、いっしょに救済してくれるのであろう。ただし、人間には生まれ持った個性があるので、なんらかのチェックはある可能性は 否定できない。

 

 

 

 

 

 

 

あとがき

 

 

新 約聖書は、キリスト教を『イエス再臨後の人々の心のあり方』とし、さらにユダヤ教を『それ以前の宗教のあり方』として捉えているので、どうしてもユダヤ教 に批判的に見えてしまったかもしれないが、ユダヤ教を批判しているのではない。新約聖書は、現代の宗教のあり方を批判しているのだ。

ユダヤ教から 見れば、キリスト教は、自分達の信仰を否定し、イエスという偶像を崇拝する邪教にすぎない。また、キリスト教から見れば、ユダヤ教は、選民思想に満ちた卑 小な神を崇め、イエスを十字架に架けた悪魔にすぎない。その二つの宗教を啓典の民と尊重してきたイスラム教ではあったが、彼らからは悪魔とののしられ、十 字軍に苦しめられ、近現代では、イスラエル建国で土地を奪われ、同胞を殺されたのだ。彼らから見れば、まさにユダヤ教、キリスト教こそ悪魔である。ユダヤ 教、キリスト教からすれば、聖戦を語りテロで人々を殺すイスラム教徒こそ悪魔なのである。同じ宇宙の創造主を崇めながら、ただその信仰の枠組み、型が違う というだけで、憎み合い殺しあう。愛に満ちた世界を創造するための宗教が、この世界を地獄に変えていませんか。

また、新約聖書が、批判しているのはそんな世界規模のことだけではない。

幸せになるためには、自分達の宗教団体に入るしかないんだと考える人々の布教活動が、それである。それを、聖書では、生贄と表現していた。

 

 

スミルナにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。

『初めであり、終わりである者、

死んだことはあるが生き返った者が、次のように言われる。

わたしは、あなたの苦難や、貧しさを知っている

(しかし実際は、あなたは富んでいるのだ)。

また、ユダヤ人と自称してはいるが、

その実はユダヤ人ではなくてサタンの会堂に属する者たちにそしられていることも、

わたしは知っている。

あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。

見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、

獄に入れようとしている。

あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。

そうすれば、いのちの冠を与えよう。

耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者は、

第二の死によって滅ぼされることはない』。

聖書 ヨハネの黙示録  2章

 

 

この『サタンの会堂』とは、イルミナティのことも意味しているが、自称選民(ユダヤ人)である現代の宗教団体の意味も含んでいる。

サタンの会堂に、私のこの身を預けられた。この身は、その会堂に預けられたが、いやでも自分ひとりが我慢すればよいことと思っていた。すべては、他の責任ではなく、私自身の責任なのだから。

し かし、そうも言ってはいられないことが起った。そして1998年の大晦日から1999年の元旦に、全てを解決する方法は、これしかないことを悟らされ、 「真立正安国論・未来からの最終警告」を書き始めた。そして、その中で学ばされた。この人たちは、サタンの会堂ではなく、尊い神仏の会堂であることを。

今 は、組織拡大のための布教活動、権力拡大活動、集金活動などに埋もれているが、その信仰の本質は、自己の生命とそれを包み込む宇宙の大生命にあることを。 そして全ての宗教宗派が、その名は違えども、偉大なる一なる者を崇めていることを。私は、歴史しか知らなかったのである、半分しか知らなかったのである。 そしてさらに尊い半分を、全ての宗教、宗派が持っていたのである。そして転んでも転んでも、時が来るのを待ちに待った。

 

そして2006年の冥王星の惑星降格で、あの大いなるしるし、グランドクロスが、その効力を増したのである。こうなれば、イエスの再臨、空中携挙は今度こそ近いはずである。預言を調べてみると、

 

 

偉大な預言者の書簡が横取りされ

暴君の手に渡るだろう

彼は王国を欺こうとしていたのだが

まもなくその盗みのために

       彼は窮地に追い込まれるだろう

 諸世紀2−36

「ノストラダムス全予言」Eチ−タム著  流智明 監修

 

 

天上の学芸に通じたもっとも学識ある人びとの一部が

無学な君主たちに懲戒されるだろう

勅令で罰され 極悪人として追放され

見つかればその場で処刑される

 諸世紀4−18

「ノストラダムス全予言」Eチ−タム著  流智明 監修

 

 

教会人の血が流される

大量の水のように

それは永らく抑えられぬ

悲しいかな 破滅と悲嘆が聖職に

 諸世紀8−98

「ノストラダムス全予言」Eチ−タム著  流智明 監修

 

なんと、イエスの再臨と伴に、未曾有の大迫害が始まることが分かった。

 

ああ、そうだったのか。あの大バビロンの大淫婦が金の杯に入れて酔いしれていた血とは、我々の血だったのだ。この時間の世界に先行する世界で、実際にこんな大迫害があったのであろう。

 

 

 

わたしは、

そこでひとりの女が赤い獣に乗っているのを見た。

その獣は神を汚すかずかずの名でおおわれ、

また、それに七つの頭と十の角とがあった。

この女は紫と赤の衣をまとい、

金と宝石と真珠とで身を飾り、

憎むべきものと自分の姦淫の汚れとで満ちている金の杯を手に持ち、

その額には、一つの名がしるされていた。

それは奥義であって、

「大いなるバビロン、淫婦どもと地の憎むべきものらとの母」

というのであった。

わたしは、

この女が聖徒の血とイエスの証人の血に酔いしれているのを見た。

聖書 ヨハネの黙示録  17章

 

この時間の世界で、こんな迫害が起ってしまえば、すべては無駄になってしまうかもしれないが、、、、、。しかしそうはならないように、この日本という国には仕組みが施されている。いや、世界に仕組みが施されているのだ。

イエスも、そんな大迫害を避けるために、以下のような言葉を残してくれている。私に残された道は、全人類が真実を理解し救われることを信じて、歩き続けるしかないようである。

 

 

おおいかぶされたもので、

現れてこないものはなく、

隠れているもので、

知られてこないものはない。

だから、あなたがたが暗やみで言ったことは、

なんでもみな明るみで聞かれ、

密室で耳にささやいたことは、

屋根の上で言いひろめられるであろう。

そこでわたしの友であるあなたがたに言うが、

からだを殺しても、

そのあとでそれ以上なにもできない者どもを恐れるな。

恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。

殺したあとで、

更に地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい。

そうだ、あなたがたに言っておくが、

そのかたを恐れなさい。

五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。

しかも、その一羽も神のみまえで忘れられてはいない。

その上、あなたがたの頭の毛までも、

みな数えられている。

恐れることはない。

あなたがたは多くのすずめよりも、

まさった者である。

そこで、あなたがたに言う。

だれでも人の前でわたしを受けいれる者を、

人の子も神の使たちの前で受けいれるであろう。

しかし、人の前でわたしを拒む者は、

神の使たちの前で拒まれるであろう。

また、人の子に言い逆らう者はゆるされるであろうが、

聖霊をけがす者は、ゆるされることはない。

あなたがたが会堂や役人や高官の前へ

ひっぱられて行った場合には、

何をどう弁明しようか、

何を言おうかと心配しないがよい。

言うべきことは、

聖霊がその時に教えてくださるからである」。

聖書  ルカによる福音書 12章

 

 

もしあなたがたがわたしを愛するならば、

わたしのいましめを守るべきである。

わたしは父にお願いしよう。

そうすれば、父は別に助け主を送って、

いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。

それは真理の御霊である。

この世はそれを見ようともせず、

知ろうともしないので、

それを受けることができない。

あなたがたはそれを知っている。

なぜなら、それはあなたがたと共におり、

またあなたがたのうちにいるからである。

わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。

あなたがたのところに帰って来る。

もうしばらくしたら、

世はもはやわたしを見なくなるだろう。

しかし、あなたがたはわたしを見る。

わたしが生きるので、

あなたがたも生きるからである。

その日には、わたしはわたしの父におり、

あなたがたはわたしにおり、

また、わたしがあなたがたにおることが、

わかるであろう。

わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、

わたしを愛する者である。

わたしを愛する者は、

わたしの父に愛されるであろう。

わたしもその人を愛し、

その人にわたし自身をあらわすであろう」。

イスカリオテでない方のユダがイエスに言った、

「主よ、あなたご自身をわたしたちにあらわそうとして、

世にはあらわそうとされないのはなぜですか」。

イエスは彼に答えて言われた、

「もしだれでもわたしを愛するならば、

わたしの言葉を守るであろう。

そして、わたしの父はその人を愛し、

また、わたしたちはその人のところに行って、

その人と一緒に住むであろう。

わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。

あなたがたが聞いている言葉は、

わたしの言葉ではなく、

わたしをつかわされた父の言葉である。

これらのことは、あなたがたと一緒にいた時、

すでに語ったことである。

しかし、助け主、すなわち、

父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、

あなたがたにすべてのことを教え、

またわたしが話しておいたことを、

ことごとく思い起させるであろう。

わたしは平安をあなたがたに残して行く。

わたしの平安をあなたがたに与える。

わたしが与えるのは、

世が与えるようなものとは異なる。

あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。

『わたしは去って行くが、

またあなたがたのところに帰って来る』と、

わたしが言ったのを、あなたがたは聞いている。

もしわたしを愛しているなら、

わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるであろう。

父がわたしより大きいかたであるからである。

今わたしは、そのことが起らない先にあなたがたに語った。

それは、事が起った時にあなたがたが信じるためである。

わたしはもはや、あなたがたに、多くを語るまい。

この世の君が来るからである。

だが、彼はわたしに対して、なんの力もない。

しかし、わたしが父を愛していることを世が知るように、

わたしは父がお命じになったとおりのことを行うのである。

立て。さあ、ここから出かけて行こう。

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。

わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、

父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、

もっと豊かに実らせるために、

手入れしてこれをきれいになさるのである。

あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。

わたしにつながっていなさい。

そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。

枝がぶどうの木につながっていなければ、

自分だけでは実を結ぶことができないように、

あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。

もし人がわたしにつながっており、

またわたしがその人とつながっておれば、

その人は実を豊かに結ぶようになる。

わたしから離れては、

あなたがたは何一つできないからである。

人がわたしにつながっていないならば、

枝のように外に投げすてられて枯れる。

人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、

焼いてしまうのである。

あなたがたがわたしにつながっており、

わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、

なんでも望むものを求めるがよい。

そうすれば、与えられるであろう。

あなたがたが実を豊かに結び、

そしてわたしの弟子となるならば、

それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。

父がわたしを愛されたように、

わたしもあなたがたを愛したのである。

わたしの愛のうちにいなさい。

もしわたしのいましめを守るならば、

あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。

それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、

その愛のうちにおるのと同じである。

わたしがこれらのことを話したのは、

わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、

また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。

わたしのいましめは、これである。

わたしがあなたがたを愛したように、

あなたがたも互に愛し合いなさい。

人がその友のために自分の命を捨てること、

これよりも大きな愛はない。

あなたがたにわたしが命じることを行うならば、

あなたがたはわたしの友である。

わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。

僕は主人のしていることを知らないからである。

わたしはあなたがたを友と呼んだ。

わたしの父から聞いたことを皆、

あなたがたに知らせたからである。

あなたがたがわたしを選んだのではない。

わたしがあなたがたを選んだのである。

そして、あなたがたを立てた。

それは、あなたがたが行って実をむすび、

その実がいつまでも残るためであり、

また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、

父が与えて下さるためである。

これらのことを命じるのは、

あなたがたが互に愛し合うためである。

もしこの世があなたがたを憎むならば、

あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、

知っておくがよい。

もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、

この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。

しかし、あなたがたはこの世のものではない。

かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。

だから、この世はあなたがたを憎むのである。

わたしがあなたがたに

『僕はその主人にまさるものではない』

と言ったことを、おぼえていなさい。

もし人々がわたしを迫害したなら、

あなたがたをも迫害するであろう。

また、もし彼らがわたしの言葉を守っていたなら、

あなたがたの言葉をも守るであろう。

彼らはわたしの名のゆえに、

あなたがたに対してすべてそれらのことをするであろう。

それは、わたしをつかわされたかたを彼らが知らないからである。

もしわたしがきて彼らに語らなかったならば、

彼らは罪を犯さないですんだであろう。

しかし今となっては、

彼らには、その罪について言いのがれる道がない。

わたしを憎む者は、わたしの父をも憎む。

もし、ほかのだれもがしなかったようなわざを、

わたしが彼らの間でしなかったならば、

彼らは罪を犯さないですんだであろう。

しかし事実、彼らはわたしとわたしの父とを見て、

憎んだのである。

それは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』

と書いてある彼らの律法の言葉が成就するためである。

わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、

すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、

それはわたしについてあかしをするであろう。

あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのであるから、

あかしをするのである。

わたしがこれらのことを語ったのは、

あなたがたがつまずくことのないためである。

人々はあなたがたを会堂から追い出すであろう。

更にあなたがたを殺す者がみな、

それによって自分たちは神に仕えているのだと思う時が来るであろう。

彼らがそのようなことをするのは、

父をもわたしをも知らないからである。

わたしがあなたがたにこれらのことを言ったのは、

彼らの時がきた場合、

わたしが彼らについて言ったことを、

思い起させるためである。

これらのことを初めから言わなかったのは、

わたしがあなたがたと一緒にいたからである。

けれども今わたしは、

わたしをつかわされたかたのところに行こうとしている。

しかし、あなたがたのうち、

だれも『どこへ行くのか』と尋ねる者はない。

かえって、わたしがこれらのことを言ったために、

あなたがたの心は憂いで満たされている。

しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、

わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。

わたしが去って行かなければ、

あなたがたのところに助け主はこないであろう。

もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。

それがきたら、罪と義とさばきとについて、

世の人の目を開くであろう。

罪についてと言ったのは、

彼らがわたしを信じないからである。

義についてと言ったのは、

わたしが父のみもとに行き、

あなたがたは、もはやわたしを見なくなるからである。

さばきについてと言ったのは、

この世の君がさばかれるからである。

わたしには、

あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、

あなたがたは今はそれに堪えられない。

けれども真理の御霊が来る時には、

あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。

それは自分から語るのではなく、

その聞くところを語り、

きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。

御霊はわたしに栄光を得させるであろう。

わたしのものを受けて、

それをあなたがたに知らせるからである。

父がお持ちになっているものはみな、

わたしのものである。

御霊はわたしのものを受けて、

それをあなたがたに知らせるのだと、

わたしが言ったのは、そのためである。

しばらくすれば、あなたがたはもうわたしを見なくなる。

しかし、またしばらくすれば、

わたしに会えるであろう」。

そこで、弟子たちのうちのある者は互に言い合った、

「『しばらくすれば、わたしを見なくなる。

またしばらくすれば、

わたしに会えるであろう』と言われ、

『わたしの父のところに行く』と言われたのは、

いったい、どういうことなのであろう」。

彼らはまた言った、

「『しばらくすれば』と言われるのは、

どういうことか。

わたしたちには、

その言葉の意味がわからない」。

イエスは、彼らが尋ねたがっていることに気がついて、

彼らに言われた、

「しばらくすればわたしを見なくなる、

またしばらくすればわたしに会えるであろうと、

わたしが言ったことで、互に論じ合っているのか。

よくよくあなたがたに言っておく。

あなたがたは泣き悲しむが、

この世は喜ぶであろう。

あなたがたは憂えているが、

その憂いは喜びに変るであろう。

女が子を産む場合には、

その時がきたというので、不安を感じる。

しかし、子を産んでしまえば、

もはやその苦しみをおぼえてはいない。

ひとりの人がこの世に生れた、

という喜びがあるためである。

このように、あなたがたにも今は不安がある。

しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。

そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。

その喜びをあなたがたから取り去る者はいない。

その日には、あなたがたがわたしに問うことは、

何もないであろう。

よくよくあなたがたに言っておく。

あなたがたが父に求めるものはなんでも、

わたしの名によって下さるであろう。

今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。

求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。

そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。

わたしはこれらのことを比喩で話したが、

もはや比喩では話さないで、

あからさまに、父のことをあなたがたに話してきかせる時が来るであろう。

その日には、あなたがたは、わたしの名によって求めるであろう。

わたしは、あなたがたのために父に願ってあげようとは言うまい。

父ご自身があなたがたを愛しておいでになるからである。

それは、あなたがたがわたしを愛したため、

また、わたしが神のみもとからきたことを信じたためである。

わたしは父から出てこの世にきたが、

またこの世を去って、父のみもとに行くのである」。

聖書  ヨハネによる福音書 14〜16章

 

その後、主は別に七十二人を選び、

行こうとしておられたすべての町や村へ、

ふたりずつ先におつかわしになった。

そのとき、彼らに言われた、

「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、

その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい。 

さあ、行きなさい。わたしがあなたがたをつかわすのは、

小羊をおおかみの中に送るようなものである。

財布も袋もくつも持って行くな。だれにも道であいさつするな。

どこかの家にはいったら、

まず『平安がこの家にあるように』と言いなさい。

もし平安の子がそこにおれば、

あなたがたの祈る平安はその人の上にとどまるであろう。

もしそうでなかったら、それはあなたがたの上に帰って来るであろう。

それで、その同じ家に留まっていて、

家の人が出してくれるものを飲み食いしなさい。

働き人がその報いを得るのは当然である。家から家へと渡り歩くな。

どの町へはいっても、人々があなたがたを迎えてくれるなら、

前に出されるものを食べなさい。

そして、その町にいる病人をいやしてやり、

『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。

しかし、どの町へはいっても、人々があなたがたを迎えない場合には、

大通りに出て行って言いなさい、

『わたしたちの足についているこの町のちりも、ぬぐい捨てて行く。

しかし、神の国が近づいたことは、承知しているがよい』。

あなたがたに言っておく。

その日には、この町よりもソドムの方が耐えやすいであろう。

わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。

おまえたちの中でなされた力あるわざが、もしツロとシドンでなされたなら、

彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰の中にすわって、悔い改めたであろう。

しかし、さばきの日には、ツロとシドンの方がおまえたちよりも、耐えやすいであろう。

ああ、カペナウムよ、おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。

黄泉にまで落されるであろう。

あなたがたに聞き従う者は、わたしに聞き従うのであり、

あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。

そしてわたしを拒む者は、わたしをおつかわしになったかたを拒むのである」。

七十二人が喜んで帰ってきて言った、

「主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までがわたしたちに服従します」。

彼らに言われた、「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。

わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、

敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。

だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。

しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。

むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」。

そのとき、イエスは聖霊によって喜びあふれて言われた、

「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。

これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。

父よ、これはまことに、みこころにかなった事でした。

すべての事は父からわたしに任せられています。

そして、子がだれであるかは、父のほか知っている者はありません。

また父がだれであるかは、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほか、

だれも知っている者はいません」。

それから弟子たちの方に振りむいて、ひそかに言われた、

「あなたがたが見ていることを見る目は、さいわいである。

あなたがたに言っておく。多くの預言者や王たちも、

あなたがたの見ていることを見ようとしたが、

見ることができず、あなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、

聞けなかったのである」。

聖書  ルカによる福音書  10章

 

 

 

 

偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。

あなたがたは、わざわいである。

あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。

自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。

〔 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。

あなたがたは、わざわいである。

あなたがたは、やもめたちの家を食い倒し、

見えのために長い祈をする。

だから、もっときびしいさばきを受けるに違いない。〕

偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。

あなたがたは、わざわいである。

あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、

海と陸とを巡り歩く。

そして、つくったなら、

彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。

盲目な案内者たちよ。

あなたがたは、わざわいである。

あなたがたは言う、

『神殿をさして誓うなら、そのままでよいが、

神殿の黄金をさして誓うなら、果す責任がある』と。

愚かな盲目な人たちよ。

黄金と、黄金を神聖にする神殿と、

どちらが大事なのか。

また、あなたがたは言う、

『祭壇をさして誓うなら、そのままでよいが、

その上の供え物をさして誓うなら、

果す責任がある』と。

盲目な人たちよ。

供え物と供え物を神聖にする祭壇とどちらが大事なのか。

祭壇をさして誓う者は、

祭壇と、その上にあるすべての物とをさして誓うのである。

神殿をさして誓う者は、

神殿とその中に住んでおられるかたとをさして誓うのである。

また、天をさして誓う者は、

神の御座とその上にすわっておられるかたとをさして誓うのである。

偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、

わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を

宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、

公平とあわれみと忠実とを見のがしている。

それもしなければならないが、

これも見のがしてはならない。

盲目な案内者たちよ。

あなたがたは、ぶよはこしているが、

らくだはのみこんでいる。

偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。

あなたがたは、わざわいである。

杯と皿との外側はきよめるが、

内側は貪欲と放縦とで満ちている。

盲目なパリサイ人よ。

まず、杯の内側をきよめるがよい。

そうすれば、外側も清くなるであろう。

偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。

あなたがたは、わざわいである。

あなたがたは白く塗った墓に似ている。

外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、

あらゆる不潔なものでいっぱいである。

このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、

内側は偽善と不法とでいっぱいである。

偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。

あなたがたは、わざわいである。

あなたがたは預言者の墓を建て、

義人の碑を飾り立てて、

こう言っている、

『もしわたしたちが先祖の時代に生きていたなら、

預言者の血を流すことに加わってはいなかっただろう』と。

このようにして、

あなたがたは預言者を殺した者の子孫であることを、

自分で証明している。

あなたがたもまた先祖たちがした悪の枡目を満たすがよい。

へびよ、まむしの子らよ、

どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。

それだから、わたしは、預言者、知者、律法学者たちを

あなたがたにつかわすが、

そのうちのある者を殺し、

また十字架につけ、

そのある者を会堂でむち打ち、

また町から町へと迫害して行くであろう。

こうして義人アベルの血から、

聖所と祭壇との間であなたがたが殺したバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、

地上に流された義人の血の報いが、

ことごとくあなたがたに及ぶであろう。

よく言っておく。

これらのことの報いは、みな今の時代に及ぶであろう。

ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、

おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。

ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、

わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。

それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。

見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。

わたしは言っておく、

『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』と

おまえたちが言う時までは、

今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう」。

聖書  マタイによる福音書 23章

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                                           

 

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